場所のチカラ

様々な場所や景観などについてとりとめなく綴ります。

エコデモ(エコロジカル・デモクラシー)とまちづくり

エコロジカル・デモクラシー

 エコロジカル・デモクラシーという言葉があるそうです。略してエコデモ。

 

 環境保護からのまちづくりにすごく関心があるのですが、少し前に、ツイッターで建築家の藤村龍至さんが紹介していた雑誌をちょっと読んでみました。

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 環境問題に関しては、身近な植物や土地の自然と楽しく過ごせたらいいなあ、という話しと、それが地球レベルに結び付けばうれしいなあレベルなのですが、日々の生活や、いろいろな誘惑から、なんとなくそういった自然保護についての実際的な行動は、特段何もせずに現在に至っています。
 

 そんな言葉で語るばかりの活動的ではない私に共感する方が、世の中にどの程度いらっしゃるのかわかりませんが、とにかく、どんな考え方があって、どんな風に変わっているのか、何をすればさらに楽しくなるのか実際よくわからないので、今回は書きながら考えてみます。

 

まちの問題点をスケール分類

 まず、私が関心があるお題として、長崎に住んでいるので、人口減少高齢化に従う、①空き家問題など身近な問題、②もう少し大きいスケールのインフラなど都市計画上の問題、③残っていくべき自然、文化の姿などがあります。それぞれ具体的に詳しく調べる努力をしていないので、語る資格がないのは、間違いありません・・・が、とにかくちょっと考えてみます。

 

スケールごとの問題と解決の手順 

 スケール的には①②③と大きくなるわけですが、できれば③からスタートして、①を考えつつ、②を規定してまた③にフィードバックしていくのが理想ではという気がするのですが、おそらく現実的には②がまずはじめに決まり、これが①③を規定していることが多いのではないでしょうか?

 

 この③からはじめようというのがエコデモの「聖性」の考えに近いのではないかと思うのですが、実際は、利害関係からスタートするため②が決まり、そこに①と③が寄り添っていくように感じます。そこに例えば富貴楼を解体するといった事態になる原因があるのじゃないかと思うのです。これは、東大で宇佐美圭司さんの作品が廃棄されたのも根っこは同じで、日ごろの無関心さじゃないかな。

 

どうすれば大切なものをのこせるのか

では、少子高齢化、人口減少待ったなしの状況で、③をどうやって規定するのか?学習だけでは無理で、心の問題があるんだろうな、という気はします。

 

 富貴楼の事例から思うのは、もう少し連続と周辺環境とのボリューム感も生き残るための手段になり、孤立すると消滅しやすいかもしれない。もう一つ別の方法として、例えば、それぞれの自然、歴史的な施設にかかわる、もう少し深く見えない部分のつながった世界観の理解。地域規模であったり、世界規模であったり、保護と活性、エコツーリズムのようなあり方でうまくいくのかどうか。利権関係が強烈で、生きていくのも大変な時代だけに、長崎の数々の消えそうな宝を守るにはみんなの共感が得られるような目に見える素敵なカタチとし、それはある程度のスケール感でいかに表現できるかにかかっているかも。