住宅外部空間のこれから
住宅外構というと和風、洋風、雑木の庭、モダン・・・といったスタイルの話しになることが多いのですが、ちょっと別の視点から考えてみます。
長崎県の住宅と敷地との関係
インターネットでちょっと住宅の敷地に影響する数字を調べてみると、長崎県の1住宅当たりの敷地面積はほぼ横這いながら微妙に増加しているようですが、1住宅当たり延べ面積は徐々に増えてきているようです。車の所有台数は毎年1.3%とか微妙な増加のようです。
さて、何が気になっているかというと直感的に、外構(外部空間)のあり方が変化してきている気がするのですが、実際数字はどうなのかな?という疑問です。
サクッというと、敷地いっぱいに住宅を建てる傾向にあるようです。
きちんとした分析をしていないので、いい加減なものですが、住宅の外回りからいえば、徐々に狭くなってきていると読めるのではないでしょうか?
駐車スペースの増加
庭がつくりたい造園屋としては、面白くないかもしれませんが、よくみんなが口々にいうことで、駐車スペースが2台分から3、4台分へと広くなったという話しがあります。
これは事実かとは思うのですが、車の所有台数との関係があるかどうかは、誰かご存知の方がいらっしゃれば教えていただきたいところです。
もし、関係がないとすれば、来客用の駐車スペースを作る傾向にあると言えそうです。
関係があるとすれば、微妙な車所有台数の増加が、3台から4台へと、大きく面積を増やさざるを得ない状況を生み出してると言えるかもしれません。実際、私が直接聞く話では、来客用といわれることがよくあります。
庭スペースの減少
1住宅当たり延べ面積の増加が、必ず外部空間の減少に結び付いているかはわからないのかもしれませんが、屋内空間の増加と、駐車スペースの増加は、庭スペースの減少につながっていると考えてみました。
プライベート空間の質の変化
来客用の駐車スペースは、1住宅当たり延べ面積の増加と関連していると考えれば、室内に、来客用のスペースを用意しているともいえるのでしょうか?1個人としてのプライベートスペースから、仲の良い知人、親族とのプライベートスペースに変化してきているのかもしれません。別の言い方をすると、それほど親密でなくても、接点を持てるプライベートな外部空間が減ってきていると言えそうです。なんとなく、今の時代の内向化のような雰囲気を感じずにはいられません。
プライベートな外部空間の復権を目指して
内輪でいる安堵感を否定する気は全くないのですが、あまりにもそれぞれ住宅が孤立化するのは、今後の少子高齢化ではコニュニティーでの助け合いという点から切実な問題となってくるような気がします。そのためにも造園屋、エクステリア屋は、今時の外部空間のあり方について、お客様の話しに合わせるばかりではなく、どんどん魅力的な提案していかないとまずいのではないでしょうか。
具体的には、アプローチ空間と道路が無理なく接続されているか、立ち話をしたくなるような場所があるかなど、アプローチ空間の充実は大事なポイントの一つではないでしょうか?または、人の家の庭に招かれる喜びを経験できるオープンガーデンのようなイベントもいいかもしれません。
長崎県立美術館 長崎市出島町
建物緑化のしかた
長崎県立美術館(県美)はとても美しい建築で、その外観に緑の法面があることに気づかれるかと思います。近くにある長崎港松が枝国際ターミナルも同じく緑化されているのですが、比べてみると、ターミナルは芝による屋上緑化で、建物の上に芝地がつくられています。一方、県美は、建物の上ではなく側面に盛土をして緑化されています。
おそらく、建物工事中に出てきた土をうまく利用し、隣の水辺の森公園と視覚的につなごうとしたものだと思います。
この法面保護工法は一般住宅においても、高低差を擁壁よりも安価に、また見た目を穏やかに仕上げることができます。それでは、どんな植物が使われているのか、近寄ってみました。
法面を保護する植物
ササ(チゴザサ)が植栽されており、斜面の土が崩れないように保護しています。管理頻度の問題で、雑草が混じってはいるのですが、個人的には、むしろ、完璧にするよりこの程度の管理のほうが好きです。
ところで、はじめ1枚目の写真の三角右端が土の色が見えますが、おそらく、この辺りは勾配がきつく、乾燥しやすいため、枯れてしまったんじゃないでしょうか。なかなか、建物と敷地の取り合いで、法面を緩やかにするのは難しかったりするのですが、その後の管理を考えると、できるだけ緩やかにしたほうが理想的ではあります。
エコロジカル・デモクラシーとそれ以前のまちづくり、環境問題への取り組みの違いとは?
先日、Amazonからランドルフ・T・へスター著、土肥真人訳のエコロジカル・デモクラシーの本が到着!
今までのまちづくり、環境問題への取り組みと何が違うか
まだ、イントロと中身をパラパラ程度しか読んでませんが、調べてみました。
ランドスケープ・エコロジー
本文中に触れられているランドスケープ・エコロジーについては、武内和彦著の「ランドスケープエコロジー」や「環境創造の思想」などに書かれています。環境問題への取り組みの一つですが、個別に成果をあげていた地理学や生態学とは違い、はじめから大きな視野でもって包括的に考えると地域の生態が見えてくる、という考えなのですが、へスター氏によると、結局のところ、個々の研究に頼っているし、市民を無視して、トップダウンで決定する態度をとっていると批判的に語っています。
では、エコデモでは、地学的、生態的な情報についてはどのような形で、市民の調理材料として議論のテーブルにのせているのかな?というと、「デザイン・ウィズ・ネーチャー」でマップのレイヤーで読み解いていったイアン・マクハーグだったり、「ジオデザインのフレームワーク」で、共同の仕方を示したカール・スタイニッツの流れ。決して、ランドスケープ・エコロジーが否定されているわけでなく、井手久登/武内和彦「自然立地的土地利用計画」の土台の上に進化してきているようです。
パタン・ランゲージ
C・アレクザンダーの有名な考え方です。253のまちづくりの具体的方針パターンから成り立っていて、これが組み合わさり、市民の力で大きなものが出来上がるというものです。
「設計の設計」という建築家などの方が書かれた本で、松川昌平氏が「加算的なデザイン」になるので「部分を総和しても全体にならない」と述べています。
エコデモでは、考え方としておおきく3つ(可能にする形態、回復できる形態、推進する形態)に分けられており、3つとも同時に実現することを目指すべき、となっています。それぞれが、かたちではなく、かたちの方向性を述べた言葉になっていること、同時に実現することで「全体」になっていくところが肝のようです。
ひとつの流れで、ランドスケープ・エコロジーとパタン・ランゲージが、組み合わさって、マクロなスケールからミクロ、コミュニティまで視野に入るようになっているのがすごいなあ。
エコデモ(エコロジカル・デモクラシー)とまちづくり
エコロジカル・デモクラシー
エコロジカル・デモクラシーという言葉があるそうです。略してエコデモ。
環境保護からのまちづくりにすごく関心があるのですが、少し前に、ツイッターで建築家の藤村龍至さんが紹介していた雑誌をちょっと読んでみました。
環境問題に関しては、身近な植物や土地の自然と楽しく過ごせたらいいなあ、という話しと、それが地球レベルに結び付けばうれしいなあレベルなのですが、日々の生活や、いろいろな誘惑から、なんとなくそういった自然保護についての実際的な行動は、特段何もせずに現在に至っています。
そんな言葉で語るばかりの活動的ではない私に共感する方が、世の中にどの程度いらっしゃるのかわかりませんが、とにかく、どんな考え方があって、どんな風に変わっているのか、何をすればさらに楽しくなるのか実際よくわからないので、今回は書きながら考えてみます。
まちの問題点をスケール分類
まず、私が関心があるお題として、長崎に住んでいるので、人口減少高齢化に従う、①空き家問題など身近な問題、②もう少し大きいスケールのインフラなど都市計画上の問題、③残っていくべき自然、文化の姿などがあります。それぞれ具体的に詳しく調べる努力をしていないので、語る資格がないのは、間違いありません・・・が、とにかくちょっと考えてみます。
スケールごとの問題と解決の手順
スケール的には①②③と大きくなるわけですが、できれば③からスタートして、①を考えつつ、②を規定してまた③にフィードバックしていくのが理想ではという気がするのですが、おそらく現実的には②がまずはじめに決まり、これが①③を規定していることが多いのではないでしょうか?
この③からはじめようというのがエコデモの「聖性」の考えに近いのではないかと思うのですが、実際は、利害関係からスタートするため②が決まり、そこに①と③が寄り添っていくように感じます。そこに例えば富貴楼を解体するといった事態になる原因があるのじゃないかと思うのです。これは、東大で宇佐美圭司さんの作品が廃棄されたのも根っこは同じで、日ごろの無関心さじゃないかな。
どうすれば大切なものをのこせるのか
では、少子高齢化、人口減少待ったなしの状況で、③をどうやって規定するのか?学習だけでは無理で、心の問題があるんだろうな、という気はします。
富貴楼の事例から思うのは、もう少し連続と周辺環境とのボリューム感も生き残るための手段になり、孤立すると消滅しやすいかもしれない。もう一つ別の方法として、例えば、それぞれの自然、歴史的な施設にかかわる、もう少し深く見えない部分のつながった世界観の理解。地域規模であったり、世界規模であったり、保護と活性、エコツーリズムのようなあり方でうまくいくのかどうか。利権関係が強烈で、生きていくのも大変な時代だけに、長崎の数々の消えそうな宝を守るにはみんなの共感が得られるような目に見える素敵なカタチとし、それはある程度のスケール感でいかに表現できるかにかかっているかも。
大光寺 長崎市鍛冶屋町
樹木の形には、様々な剪定技術があります。近年は透かし剪定と呼ばれる技法でつくられる自然風剪定が人気ですが、それとは別に生垣に代表される人為的にある形に刈り込むジャンルがあります。海外では、トピアリーと呼ばれ、動物のかたちや幾何学型に剪定したりされます。このイヌマキの剪定もいわばトピアリーの一種です。大枝の所々に玉枝を残す「段づくり」、「玉つくり」と呼ばれる仕立てです。ひとつひとつの玉は底面を平らに、水平に作るのがポイントとなります。
立派な民家でも見られる代表的な樹木で、今どきの新築では、手入れの関係で少なくなっています。そもそもなんで、このような樹形がうまれたのか?それを考えたとき、新芽が明るく出てくる季節の玉の浮遊感から、これは、もともと雲の表現として受け継がれてきた!と感じました。つまり建物、家の格式を上げるため、建物の周り、敷地外周に雲がまとわりついているイメージを狙っているのではないかと予想しています。変化の乏しい常緑樹ではありますが、黄みがかった新葉が吹き出す季節はこの木の最大の見どころだと思います。
山採り樹形がもてはやされる昨今、そろそろ、このような段づくりも和風といったジャンルとは違う新しい解釈をくわえることで庭や広場に再登場してほしいものです。
参考:樹木の剪定と整姿 上原敬二著
吉野ケ里歴史公園 佐賀県神埼郡
本日は、吉野ケ里遺跡/歴史公園に行ってきました。
ある意味、外構、エクステリアのthe原点ではないかと思うので、ちょっと、見てみましょう。
弥生のエクステリアスタイル
王が住んでいる家のアプローチ写真です。鳥居のような門がエントランスです。門扉はここにはありませんでした。外柵は、いかつい木杭(逆茂木/写真背後)フェンスですが、ゲートにはカワイイ鳥の飾り、完成度の高い世界を作っています。
竪穴住居の謎
さて敷地内の南内郭といわれる、王や支配者層が居住していた場所を物見櫓から撮影したものです。写真中央にあるのが、先ほどの王が住んでいる家です。
まず、今回何よりも小学生以来長年の謎が解けたので、すでにご存じの方もいらっしゃるかとは思いますが…うれしかったので、ご報告いたします!
いわゆる竪穴住居なんですが、なんでこんな水が溜まりそうな住居で生活していたのか???です。
この家の中には1mほど、掘削されているのですが、その発生土で家の土壁が作られて言います。そんな程度で、大丈夫?かと思うのですが、写真をみてもわかるかと思うのですが、集落自体が周辺より小高い丘陵地に位置していることが分かります。住む場所として、安全な地形を選んでいるんですね。さらに建物周りに壕がありその発生土を壕の外側に盛土することで、外からの流入と敷地内の排水の役目をしています。なんで、ここがそもそも丘陵地になったのか?とかブラタモリ的疑問が湧いてくるのですが、とりあえず目をつぶっておきます。このようにいくつかの手法でもって、水の流入を防いでいるのですね。
それでも、なぜ、そこまでして穴を掘ったのでしょうか?答えは、弥生時代には断熱性の外壁材は当然なく、木の板一枚の家では、冬が耐えられないのですが、穴の中だとずっとしのげるということのようです。理にかなったデザインって美しいなあ。
ほかにも、墓地周辺の敷地デザインが本当にすてきだったのですが、今回はここまで。
金崎海岸潮干狩り 諫早市小長井町
有明海は浅い内湾で、外海の干満に引きずられる形で内湾の水が出入りし、日本一干満の差が大きいといわれるそうです。また、この海岸線の大きな変化が多様な生態系につながっています。〈追記〉タイトルのタイミングが良く、アクセス数が伸びました。この地味な内容では、見ていただいた方に申し訳ないので、情報を追加いたします。
①今年は、去年より採れました (^▽^)/
②粒も大きかった。
③アサリは、ある所にかたっまてあります。見当たらない時は、さっさと場所を移動しましょう!